下町風来坊~小僧の温故知新~

こんにちは。北海道から数十年前に首都圏に移住。谷中のように、繁盛し続けている下町や商店街、ちょっぴり役割を終えつつある街並み、そしてもう役割を終えたはずなのに今も輝きの残照を残している旧色街など、江戸から平成までの生きた街の姿を紹介します。  ※当ブログで使用されている写真の使用・転載はお断りいたします。

吉田松陰 ~江戸の絆~(3)

なぜ世田谷の地に松蔭神社はあるのか?
豪徳寺・松蔭神社 (5)_R

世田谷100 (201)_R
なぜ復元された松下村塾まであるのか?
世田谷100 (205)_R
世田谷100 (209)_R
優しい吉田松陰像
世田谷100 (206)_R

吉田松陰が処刑された4年後、文久4年、高杉晋作、
伊藤博文らによって長州藩主の別邸があった世田谷の地にお墓が作られました。
豪徳寺・松蔭神社 (15)_R
明治15年、吉田松陰の門下生が話し合い、お墓のそばに社が置かれ、
祀られることになったのです。
弟子たちにとって、神格化する事こそが供養だと考えたのでしょう。
豪徳寺・松蔭神社 (14)_R
石灯籠の奉納者の名には明治の元勲が、、、伊藤博文、井上馨、山縣有朋、
世田谷100 (216)_R

「松蔭神社商店街」
世田谷100 (159)_R
ホームページでその魅力を「元気で優しい」と書かれていました。
世田谷100 (160)_R
どこもかしこも
世田谷100 (176)_R
ほんとうそう、優しい街でした
世田谷100 (192)_R
教育者として武士・商人・農民等しく接した吉田松陰の優しさが
世田谷100 (185)_R
この街を包み込んでいるからでしょう

次の最後の記事は、意外な場所かもしれません。
おたのしみに、



関連記事
おばんですkozoh55さん^ ^♪

いやぁ〜とても勉強になりました♬
吉田松陰シリーズ( ´ ▽ ` )ノ

名前は知ってても そんな若くして処刑されてしまっただなんて・・・
銅像のお顔は 全てを悟りきったお顔で もはや若者には見えないですね^^;

高校の修学旅行で松下村塾を見学しましたが…
お墓が東京にあるとは知りませんでしたぁ〜(^◇^;)ゞ
松下村塾の建物まで再現されているとはビックリです( ̄O ̄;)/
(まさか移築では無いですよね?!) ^^;

以前泪橋の記事も読んで勉強になりました^ ^
ラーメン屋さんで泪橋と言うお店があるのですが…
店主はなぜその名前にしのか気になるものの
まだ入ったことがないので 真相は謎のままです^^;

[ 2015/03/12 00:17 ] [ 編集 ]
Re: タイトルなし
こんにちは、コメントくださりありがとうございます。
ほんと不思議ですよね。
無くなられた直後はまともな供養も出来ず、
明治維新になってやっとおおっぴらに供養できるようになって
この松陰神社が出来たのも明治の相当だってから。
長州の維新の志士たちはみんな東京に出てきたから
萩とは別に祀ったのでしょうね。
そうですね、泪橋、江戸の処刑場は小塚原と鈴ヶ森、
小塚原には地名しか残ってませんが、鈴ヶ森には泪橋は現存してます。
処刑される人を最後に見送ることが出来た場所、それが泪橋でしょうね。
鈴ヶ森には火炙りをしたはりつけ台の基礎も残ってます。
悲しい史跡ですね。
また是非遊びにいらしてください。
[ 2015/03/12 15:20 ] [ 編集 ]
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する